2013年04月24日
・東京の萩原です。
4月初めの日曜日の午後、東京都小平市にあるルネ小平という公共施設にて開催された手作りヴァイオリンの作品展示会に出かけたが、なかなか面白い体験だった。
このイベントに誘ってくれたのは、キヤノン宣伝部の後輩であるH.T氏である。私は讀賣新聞社会部記者を経て、キヤノンに入社し、在職中の殆どを宣伝部に在籍した。
ただし、H.T氏は海外宣伝担当で、私は国内宣伝担当で、所在地も、年齢も違うので、余り交流はなかった。
ところが、昨秋、宣伝部OBならびにOGを集めた懇親会を開催し、その席上で、H.T氏からヴァイオリン作りに挑戦中であるという、実に興味深い話を聴いた。
前置きが長くなったが、さて手作りヴァイオリンである。
今回、H.T氏が製作したヴァイオリンのモデルは、グァルネリデルジェス1742年製アラートというヴァイオリンで、製作期間は、2009年12月から2013年3月までの3年4か月間だとか。まさに気の遠くなるような、長期間である。
おおよその工程をH.T氏に聴いたが、最初は原木を削って板を作る段階からヴァイオリン製作が始まるそうである。
今回の展示会では、20丁の完成品から選抜された10丁が展示されていた。展次会後半では、選抜された作品のみ、プロのヴァイオリニストによって短時間の演奏がなされ、100人を超える聴衆を楽しませてくれた。アヴェ・マリア、白鳥の湖、ハンガリー舞曲など、ヴァイオリンに向いた小品が演奏された。若干の音色の差など解らず、まるでストラディバリウスなみに聴こえた次第である。
帰宅後、次女に、この手作りヴァイオリンの話をしたら、「お父さんも他人と違ったことをすれば良いのに。書籍の編集やコピーライター養成教室の講師や写真展の企画などは、仕事の延長みたいで、サプライズを感じない」と言われてしまった。些か、耳に痛いことではある。
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2013年03月07日
・東京の萩原です。
現在78歳にして、現役バリバリの脚本家・演出家である倉本 聰氏が、渾身の力を込めた舞台劇「明日、悲別で」を先月、観た。新国立劇場満席観客の7割以上が泣いていた。
「富良野GROUP公演2013冬」と銘打つ、この公演のチラシに掲載された、檄文調のコピーを下記に記してみた。
いったいこの国に神様はいるのかよ!
いるなら余っ程どうかしてるぜ!
四万人のふるさとをうばって、
ー結局誰一人救うこともできずに、
それでも本当に神様はいるのか!
ふるさとー
一時だって忘れたことなどない
でも帰りたくても帰れない
◆倉本 聰氏による、メッセージ性の強い舞台劇のあらすじ。
20年前に閉山した炭坑の町・悲別。散り散りになった、かつての若者たちは、2011年大晦日、閉山の日の約束を守って、今や破綻寸前の、このふるさとに集まってくる。彼らの交わした約束とは、大昔、この炭坑の第一坑道の地下300メートルの地底に先人達が埋めたという「希望」を封印したタイムカプセルを、探しに潜ろう、ということ。
だが、20年の歳月は、彼らを変えてしまっている。
福島の原発労働者となって、津波と爆発に遭遇した者。
懸命にふるさとにしがみつき、空しい町おこしに励む者。
そして、この町の町議会議員になり、原発汚染の福島の瓦礫を引き受け、廃坑の地下1000メートルに、石棺に入れて閉じ込めようと策す者。
300メートルの地下に希望があり、1000メートルの地下に今絶望を埋ようとしている悲別。
約束を守った二人の仲間が、空しくしか思えない希望を求めて、かつての懐かしい第一坑道へ二人っきりで入って行った。
いわゆる有名俳優は一人も出演せず、倉本 聰氏が主宰していた「富良野塾」卒業生グループだけによる公演。しかも、内容的には東京電力福島第一原子力発電所大爆発事故や在日韓国人強制労働問題など、多くの告発的メッセージに満ち満ちた舞台劇であった。
名前だけで、こんなに多くの観客を集客できる脚本家・演出家は、倉本 聰氏をはじめ、そんなに多くは存在しないだろう。その独特なメッセージ性とともに、末永く活躍していただきたいものだ。
劇中で歌われた「練鑑ブルース」をもじった歌が、頭から離れない。
銭で買われた原発に
志願して来る馬鹿もいる
汚染まみれの この俺を
かあちゃん どうか忘れずに
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2013年02月20日
・東京の萩原です。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや
まさに"早熟の天才"の異名を欲しいままにして、生き急ぎ、死に急いだのが寺山修司であったろう。
寺山修司(1935年~1983年)が逝ってから満30年。地元の世田谷文学館にて「帰ってきた寺山修司」というタイトルの文学展(2月2日~3月31日)を開催しているので、早速観に行き、かなり感動した。
寺山修司を語るとき、彼のあらゆる方面での活躍が語られる。確かに、彼の残した足跡はすさまじい。
詩人、歌人、俳人、小説家、劇作家、演出家、劇団主宰者、映画監督、写真家、競馬評論家・・・など。
その活動は多岐にわたり、テラヤマ本人は、問われると「職業・寺山修司」と青森訛りで語っていたとか。
青森高校時代に、県下の高校生を糾合した文学団体を組織化。早稲田大学在学中に立ち上げた学生演劇グループは、形を変えて現在にも受け継がれている。
寺山修司という不世出の才人と彼の才能を慕い周囲に集まった人物たちも、すさまじい人脈(笑)である。
浅利慶太、石原慎太郎、江藤 淳、榎本了壱、沢渡 朔、竹永茂生、立木義浩、田辺茂一、萩原朔美、東 由多加、増田通二、三島由紀夫、三輪明宏、山口昌男、横尾忠則。
何人かは鬼籍に入ったが、今なお活躍中の人物も多い。
テラヤマの歩んだ足跡や彼自身の生き方を辿ることは、まさに、近現代の文化史や文学史に繋がると私は思う。
寺山修司のような"早熟の天才"の再出現を待ちたい。
百年たったら帰っておいで
百年たてばその意味わかる
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2013年01月15日
・東京の萩原です。
昨年末の12月29日(土)午後、私の地元である下北沢に数ある小劇場の一つ「Liberty」という地下劇場にて『イシノマキにいた時間』の舞台公演を、家族とともに観た。感動の一言だった。
案内はがきに記された、作・演出、そして主演の福島カツシゲさんの言葉を、以下に引用する。
あれから1年9ヶ月。初めて石巻の風景を見た時に「人がどうこう出来るコトではない」という無力だけを感じ、あの頃の石巻から、今の石巻を想像することは出来ませんでした。この舞台で3人のボランティアが発する台詞は、実際に石巻で感じた想い、耳にしたコトバです。テレビの画面から伝わらないリアルが、石巻の「あの頃」が、この舞台にはあると思っています。あの日感じた無力でしたが、今、伝えるチカラを感じています。ようやく役者の出番が来ました。
出演者わずか3人だけ、という構成だが、底流には石巻で活躍する震災ボランティア数百人いや数千人、あるいは数万人の存在と思いが込められている。
劇中では(震災)ボランティアそのものの意味を問い、ボランティアという行為の真実を考えさせられる。
私自身も含め、満席状態の観客のほとんどが、実際に震災ボランティア経験があるらしく、舞台の進行に合わせるように涙を流していたのが印象的だった。
劇中のセリフには、しばしば「ピースボートのボランティア組織」という言葉が飛び交っていた。また、劇中で挿入されるスライド映像にもピースボートのボランティアが活躍するシーンが多く写し出ていた。石巻市を中心とするピースボートボランティアの活躍には、改めて認識を新たにし、心頼もしかった。
「イシノマキの時間は、今もながれている。」というスローガン・コピーが、ずっしりと胸に響く舞台だ。
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2012年12月26日
・東京の萩原です。
先月半ばの日曜日午後、妻・節子と姪を伴って、横浜港大桟橋停泊中のピースボート地球一周船である「オーシャンドリーム号」見学会に行った。
実は、この姪は、12月1日~9日まで、ピースボートと韓国NGOの共同企画「脱原発ショートクルーズ」に参加するので、その下見も兼ねた。
同船は僕たちが2006年に54回クルーズで乗船した「トパーズ号」よりも大型(総トン数:35265トン/乗客定員:1422人)だけど、船内講座を聴講した大ホール「ブロードウェイ」や毎晩通った居酒屋「波へい」は健在(笑)で、一安心(笑)した。
ボランティアガイドの元参加者の案内で船内を歩いていたら、岩崎由美子さん、田中洋介さん、中村充利さん、といった54回クルーズの乗船スタッフたちに出会ったが、全員が僕のことを明確に覚えていてくれたのには、些か感動した。
同行した姪も、僕と旧スタッフの親しげな交流を見て、ピースボートの雰囲気を若干でも理解したようで、身内で3人目の「地球一周の船旅」参加者になりそうな予感が、大いにした次第。
後日談になるが、「脱原発ショートクルーズ」に参加した姪から乗船体験談を聴くことができた。
福岡県の博多港を出航し、日韓の原子力発電所見学や沖縄県那覇港に上陸後、普天間基地見学。短いが濃縮された内容の航海であったらしい。
水先案内人(懐かしい言葉だ)による船内講座は、気鋭の社会学者・宮台真司氏や若手社会学者の古市憲寿氏から、多くの刺激を受けたようだ。
姪の言葉を借りるなら「東京電力福島第一原子力発電所で、あのような人災を起こした後なのに、どこの原発も、安全性を謳っていた。全く反省も配慮もしていないことに憤りすら感じた」とか。
脱原発というよりも、廃原発にしないと、人類滅亡の危機が訪れる、という学説すらある。
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