PEACE BOAT 地球一周の船旅

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旅行企画実施 株式会社ジャパングレイス 観光庁長官登録旅行業第617号 一般社団法人日本旅行業協会正会員

伊藤千尋の「世界は元気だ」

プロフィール 四角い線の見出し

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名前:伊藤千尋
出身地:山口県下関市
趣味:旅、フルート、合唱、詩吟、ワイン、読書、映画、登山
特技:合気道、スペイン語、ルーマニア語、ロマ語、速読、速筆、講演
一言:ピースボートと関わって20年。ここ10年以上は毎年水先案内人として乗船してきました


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2010年03月27日

地球大学の合宿で話したよ

 第69回クルーズで地球大学に参加する乗船者たちのために埼玉県の小川町で合宿が行われたのだけど、そこに行って1時間半、話したのだよ。

この小川町という町は、実は大変なところだって、知ってる? 

古くからの会員制の映画会があり、会員数は日本一なのだよ。ぼくも4年前に行って、ナチス時代に反戦運動をして処刑された少女を描いた映画「白バラの祈り」について話しました。そのときの講演の内容は『活憲の時代』という本に収録されてる。

さて、会場は町というより山に近い古民家だったのだ。いいなあ・・・古い農家!それをセミナーハウスに改造してあるのだよ。

近くで畑を耕しているのは、かつてピースボートのスタッフだった(今もかな?)佐藤太君。僕は彼を「ふとしくん」と呼んでます。農作業で日焼けした柔和な顔の彼からは想像できないかもしれないけど、彼はかつて内戦時代の中南米にボランティアで行き、人権NGOスタッフとして「付き添い運動」をやった珍しい日本人なのです。虐げられたグアテマラの先住民がデモをするときに、そばでいっしょに歩くのです。先住民だけでデモをすると、軍が彼らを殺してしまう。でも、外国人がいっしょにいれば、そんなことはできない。彼は命をはって先住民の命を守る役目を果たしてたのです。

その彼が今はこの小川町で有機農業を始めて数年になるのだよ。お米、野菜など作ってる。ぼくが訪れたときは神奈川県から高校生の男女が3人、研修に来てました。ビデオジャーナリストを目指す女の子もおり、なかなか力強いものを感じました。

で、肝心の地球大学です。

20人くらいの20代前後の若者がいました。3分の2くらいが女の子だった。あらかじめ考えていたのは「クルーズで何を見て、どう伝えるか」というジャーナリズムの手引きのようなことです。でも、話す前に彼らといっしょに豚汁を食べているうちに、別のことを話そうと思って急遽、話題を転換したのだよ。そこで彼らからさかんに聞かれたのが「なぜジャーナリストを目指したのか」ということだった。話したのは、僕はそこを話すことにしたのです。

僕が彼らの年頃に何をしたか・・・。大学3年のときにキューバに行きました。日本の常識はなにかおかしいと思い、日本とはまったく違う世界を見ようと思ったのです。そうしたら日本が見えてくると思った。そこで選んだのが政治も経済も文化も違うキューバだった。キューバの田舎のサトウキビ畑でキューバ人といっしょに半年間、サトウキビを刈る国際ボランティアをしたのです。だって、観光で短期間行っても、そこを理解することはできないし、働かないと実情はわからないものね。

次が大学4年の「ジプシー」調査探検旅行だった。4年になって朝日新聞の就職試験を受けて、「おめでとう」という内定の電話をもらったとたんに嫌になった。そんなことってあるだろう。夢って、かなったとたんに、もういいやって思うものだ。

そのとき考えたのは、自由な学生時代にもっとあちこち旅をしたいということだった。当時、サンケイ新聞がサンケイ・アドベンチャープランという冒険計画を募集していた。世界のどこでも探検・冒険のような旅をする企画を募集し、当選のものには1000万円だすという。1973年の1000万円って、今の3000万円くらいの価値があった。で、これに応募することにしたのだよ。テーマは何か。それは、僕自身がそのとき思ったことだ。自分はなぜ就職が決まったのに旅に出たいと思うのだろうか?思えば日本人は、いや人間は旅が好きだ・・・「人はなぜ旅をするのだろうか」。それをそのままテーマにした。で、具体的に対象にしたのが東欧に多い「ジプシー」と呼ばれた流浪の民族ロマなのだよ。彼らは一生、幌馬車でおちこち巡りながら旅で暮らす。ならば彼らの生態を文化人類学的に探検調査すれば人間と旅の関わりが見えてくるのではないかと思った。そんな内容の企画書をつくり応募したら、通っちゃった!

でも、その知らせがサンケイ新聞から来たのが、朝日新聞に入社する1週間前だった。僕は1週間後に入社式に出て、すぐに新潟支局に配属されることになってた。もう新入社員合宿も終わって、あとは入社するだけだったのだ。どうするか、このまま朝日新聞に就職するか、それとも「ジプシー探検」に行くか、とっても悩んだ。自分の人生であの1週間ほど悩んだことはない。

その結果、決めた。「ジプシー旅行に行こう」と。

決め手は「ロマン」だった。このまま就職してしまえば、自分は一生、安定とか地位とか名誉などを選ぶのではないかと思った。それが嫌だった。人生に役に立たなくてもいい。カネが入らなくてもいい。面白そうな、やってみたいワクワクするようなことが目の前にあれば、そっちに進む人生を歩みたい。そう思った。そこで朝日新聞に行き、やめさせていただきます、と言った。朝日新聞に今いるのは、翌年の試験をもう一度受け直して合格したからだ。2年連続してとってくれた。まあ、ほかの会社なら、こんなことはしてくれなかったろう。

というような話や、特派員として戦場で会った少年兵の話などしているうちに時間がたち・・・あ、この文章もかなり長くなっちゃったなあ・・。続きは次号で。

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2010年03月08日

闘いの中に歌があった

3月7日、東京・新宿の歌声喫茶「ともしび」で講演をしました。
タイトルは「闘いの中に歌があった」です。
これまで取材する中で感じてきたのは、社会の変革があるときには人々から歌が生まれたことでした。今回は
1.「赤とんぼ」
2.「神田川」
3.「歓喜の歌」
4.「We Shall Overcome」
の4曲について、歌ができたいきさつを話しました。

「赤とんぼ」の歌詞を書いた三木露風は5歳のときに親が離婚し、母親と引き離されて育ちました。12歳でつくった俳句が「赤とんぼ とまっているよ 竿の先」で、これがそのまま童謡の4番に入れられています。離婚した母はやがて日本の婦人参政権運動の旗手となり雑誌『女権』を発行して女性の権利の拡張のために人生を捧げました。母が亡くなったとき、露風はその遺体のそばで一晩添い寝し、5歳のときからの願望をかなえたのです。
「神田川」は、一見、女性が自分の学生時代を回想して歌うという内容に見えます。この歌が出来た当時、「軟弱な4畳半フォーク」といわれましたが、実は「男性の側から見た闘う歌」なのです。歌詞を書いたのは喜多條忠氏、作曲は歌手の南こうせつ氏ですが、作詞から作曲の完成までわずか1時間でした。歌詞の最後の「ただ、あなたのやさしさがこわかった」という部分はあとから付け加えられたのです。「何もこわくなかった」若者のころに何かこわいものはなかったかと喜多條氏が考えたときに、思い浮かんだのが「デモから帰宅したときに見た、同棲していた3畳間でカレーライスをつくる彼女の後ろ姿だったこと」でした。それを見たときに甘美な日常に浸っていては自分の存在証明はできないと彼は考えて、敢えて「闘う人生」を選んだのでした。それまでずっと女性が主語のこの歌は、最後の1行だけは主語が男性の側なのです。
「歓喜の歌」の詩を書いたのはドイツの詩人シラーです。彼は封建制に刃向かう戯曲を書いたため領主と対立して放浪するはめになりました。その中でようやく理解者を得た悦びからこの歌詞が生まれました。それが当時の若者に熱狂的に迎えられ、若きベートーベンもこの詩による作曲を決意し、それが30年後に実現したのです。今やこの歌は解放の悦びを歌う歌として世界で歌われ、1980年代の南米チリの反軍政民主化運動の高まりの中で抵抗のシンボルの歌となりました。1989年の東欧革命のさいにはチェコの革命勝利集会でも歌われました。日本で始めて演奏されたのは第一次大戦のさいで、日本軍の捕虜となったドイツ兵の合奏団が徳島の収容所で演奏したことです。それが日本の年末の恒例の歌となったいきさつ・・・などを話しました。
最後の「We Shall Overcome」は米国の黒人公民権運動が高まる中で歌い継がれた曲です。
まあ、こんなことを2時間かけて話しました。
話の前後に会場の約60人の人といっしょにその歌を歌いました。歌は、できたいきさつや込められた意味を知るといっそう感銘するものがあるようで、講演する前とあとでは、みんさんの歌の力も違っていました。
この6月にはピースボートに乗るつもりですが、そのさいには船上でもこうした講座を持とうかと考えています。歌が好きな方はご期待ください。

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2010年03月01日

八月九日のサンタクロース

 1999年にピースボートに乗った長崎の漫画家、西岡由香さんが今日、2月27日に新作『八月九日のサンタクロース-長崎原爆と被爆者』を出版されました。全国同時発売です。原爆マンガとしては第二弾になります。

 ピースボートの旅がきっかけとなって社会に発信する漫画家になろうと志し、長崎原爆をテーマとした『夏の残像-ナガサキの八月九日』を出したのが2年前。「週刊金曜日」や地元の長崎新聞に4コマ漫画を連載するかたわら、長崎大学や佐賀大学の非常勤講師も務めつつ、毎年8月の長崎市の平和宣言の草案づくりにもかかわっています。

 今回のテーマは「継承」です。被爆者の平均年齢が70歳を越え、被爆体験の継承が待ったなしとなった今、自分が被爆者に代わって伝える立場になろうという意気込みが見えます。漫画だけでなく、原爆についての解説文やエッセイも入っています。

 ストーリーは、東京から長崎に引っ越してきた中学2年の女の子を主人公に、原爆について何も知らなかった彼女が新聞部で被爆者とかかわっているうちに成長するというもの。「被爆者は8月9日にやってきたサンタクロースなんだ」だと・・・。

 原爆漫画といえば、代表作は広島で被爆した少年を描いた『はだしのゲン』ですね。あの絵を見ると、原爆のすさまじさ、怖さが伝わってきます。しかし、西岡さんは「原爆はこわい」という壁を取り払い、だれもが原爆について知ろうとし、核兵器をなくす動きに結実してほしいと考えています。「知は力なんだ」ということが、この作品から伝わってきます。西岡さんは言います。「このマンガにこめた願いがある」と。それは「実際に被爆者に会ってほしい」という願いだそうです。「目の前で涙を流しながら語る被爆者を前にしたら、もうそこには理屈なんてありません。『何かしなければ!』。私もそんな思いに突き動かされた一人でした。高齢化した被爆者と会える時間はどんどん少なくなっていきます。今なら間に合います。私が被爆者からもらった一番大きなメッセージは、『生きろ』ということでした。想像を絶する体験をしてきた被爆者と会うことで、誰もがそのメッセージを心のどこかに刻印されるのだと思うのです」

出版元は凱風社。HPを見てください。
 www.gaifu.co.jp/books/ISBN978-4-7736-3403-7.html

 同じ船に乗った仲間が、こうやって社会に大きく羽ばたいているのだと知ることはうれしいことです。何よりも、西岡さん、あなた自身がしっかり自分を「生きている」ことを実感させてくれる作品になりました。おめでとう!

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