クルーズコレクション

一大リゾート地が持つそれぞれの顔-航海作家が選ぶ歴史航海-

2022年6月24日

カリブ海

一大リゾート地が持つそれぞれの顔-航海作家が選ぶ歴史航海-

美しい海が世界中の旅行者を魅了するカリブ海エリア。熱帯性の気候に彩られたビーチリゾートには、幾多の歴史物語が隠されています。カリブ海クルーズとキューバ革命の関係から、海賊たちが群雄割拠した港町の盛衰、果ては手塚治虫の名作まで、カリブ海をめぐる歴史航海へと錨をあげましょう。

文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。

一大リゾート地が持つそれぞれの顔-航海作家が選ぶ歴史航海-

キューバ革命が生んだ、カリブ海クルーズ

世界的なクルーズの中心地、カリブ海。その契機は1959年のキューバ革命と、それで誕生したフィデル・カストロ(1926~2016年)の社会主義政権だ。革命前、キューバは米国人にとって最もポピュラーなリゾート地だった。しかし1961年に米国とキューバが断交し、米国人は常夏の観光地を失った。するとカリブ海諸国やメキシコは米国人観光客を積極的に誘致。これに目をつけた米国船社が1970年代にカリブ海周遊クルーズを始め、瞬く間に人気を集めたのだ。
魅惑のカリブ海の歩みをたどる船旅へ、いざ。

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初めてキューバに上陸した日本人の銅像

世界遺産にも登録されているオールド・ハバナ(旧市街)。ハバナ湾に面したセスペデス公園に一人の侍の銅像がたっている。侍は支倉常長(はせくら・つねなが1571~1622年)。スペインとの交易を熱望した仙台藩主・伊達政宗(だて・まさむね1567~1636年)が送った慶長遣欧使節の副使である。常長を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は1613年に石巻月の浦を出港し、アカプルコに到着。陸路、大西洋岸に移動しスペイン船に乗り換え、欧州に向かった。その途上、支倉は日本人として初めてキューバの地を踏んだ。それから約400年後の2001年、仙台育英学園から寄贈されたのがこの銅像だった。

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海賊どもが夢のあと~ポート・ロイヤル~

カリブの海賊。映画や世界的なテーマパークのアトラクションでその存在を知った人も多いだろう。17世紀の英国はスペインに対する海賊たちの略奪を黙認どころかそれを奨励した。ヘンリー・モーガン(1635~88年)は特に名を馳せ、後にはジャマイカの副総督にまで出世している。その本拠地として知られたのがジャマイカのポート・ロイヤル。海賊たちが奪った宝物を持ち寄り消費することで発展を遂げ、「世界で最も豊かで最もひどい町」と言われた。しかしモーガンの死後、1692年に大地震が発生。ポート・ロイヤルの3分の2が海に沈み、モーガンの墓も海底に消えた。

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人口30人から世界的な観光地となったマヤの聖地

マヤ文明は紀元前1千年ごろから16世紀まで、ユカタン半島を中心としたメキシコ南東部からベリーズなど中米地域で栄えた。コスメルはマヤ語で「ツバメの島」、ベリーズの国名も「泥水」を意味するマヤ語に由来する。コスメルはマヤの月の女神の聖地で4万人が暮らす島だったが、16世紀にスペイン人が持ち込んだ天然痘によって人口は急減。1570年にはわずか30人にまで落ち込んだ。しかし1848年にユカタン半島で起きたマヤ族の反乱で難民となった人びとがコスメルに逃れてから人口が再増加。1960年以降、スキューバダイビングのメッカとして世界に知られる観光地となった。

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国名や通貨名にもなっている「南米解放の父」とは

ベネズエラの正式国名はベネズエラ・ボリバル共和国。通貨単位はボリバルで、紙幣の肖像画の多くにはボリバルという男性が描かれている。その名はシモン・ボリバル(1783~1830年)。ベネズエラの首都カラカスに生まれ、のちにスペイン植民地だった南米諸国の独立を志す。カルタヘナ(コロンビア)でスペインへの徹底抗戦を宣言し、ついにコロンビア・ベネズエラ・エクアドル・ボリビア・ペルーと5カ国の独立を実現。「南米解放の父」と言われ、ボリビアの国名の由来ともなった。その名声は南米にとどまらず、エジプト・カイロにも「シモン・ボリバル広場」があるほどだ。

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パナマ運河建設工事のアルバイトをしたゴーギャン

スエズ運河を建設したフランスの外交官・実業家レセップス(1805~94年)。1881年にはパナマ地峡の運河建設にも着手した。1887年、売れない画家だったポール・ゴーギャン(1848~1903年)は資金援助をあてにして親戚が暮らすパナマに渡る。が、期待は見事に裏切られ、パナマ運河の切削作業員としてアルバイトせざるを得なくなる。まもなく熱病にかかり、逃げるようにパナマからカリブ海に浮かぶフランス領マルティニーク島へ。ここで制作した熱帯の作品は、後のタヒチでの画風へとつながるものであった。パナマでレセップスの運河建設は失敗するが、ゴーギャンは成功したのかもしれない。

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© Kajiura Takashi

パナマ運河建設に関わった、たったひとりの日本人

レセップスの挫折のあと、米国がパナマ運河建設に乗り出す。その建設に携わった唯一の日本人が青山士(あおやま・あきら1878~1963年)。ジャングルに分け入り、マラリアにかかるなど過酷な日々を過ごすが、やがてその手腕を評価され、技術者としてガトゥン閘門の重要部分の設計を担当した。しかし、日露戦争後に米国で対日感情が悪化した影響もあり、運河完成直前の1911年に帰国。内務省に入省し、東京の荒川放水路の建設や、新潟の信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。現在、パナマシティのパナマ運河博物館には、建設に功績のあった人物として青山の写真が展示されている。

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手塚治虫『火の鳥』のモデルとなったケツァール

カタールで開催されるサッカー・ワールドカップで日本との対戦が決まり、注目度が高まるコスタリカ。彼の地は、世界一美しい鳥といわれるケツァールの姿を見られることでも知られる。その鮮やかな見た目から古代マヤやアステカの人たちは「大気の神」として崇拝したという。そしてケツァールは手塚治虫(1928~89年)の漫画『火の鳥』のモデルでもある。手塚といえば、1980年代に水先案内人としてピースボートクルーズに乗船。あの「鉄腕アトム」もピースボートクルーズのある高田馬場で生まれた設定だ。ケツァールから手塚治虫、そして高田馬場。思わぬつながりはカリブの海賊たちも見つけられない宝物だ。

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