クルーズコレクション

航海者を楽天的にする歴史の十字路-航海作家が選ぶ歴史航海-

2022年12月2日

インド洋

航海者を楽天的にする歴史の十字路-航海作家が選ぶ歴史航海-

インド洋に点々と連なる美しい島国の数々。透き通った海を渡るアイランドホッピングはクルーズならではの楽しみです。一方、この海は歴史を紡ぐ上で重要な役割がありました。航海作家カナマル氏が紐解きます。

文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。

航海者を楽天的にする歴史の十字路-航海作家が選ぶ歴史航海-
© Matsuda Sakika

歴史の十字路・インド洋は航海者を楽天的にする

「印度洋は航海者を厭世的にする」という。作家・司馬遼太郎が日露戦争を描いた小説『坂の上の雲』のなかの一文だ。1905年、極東に向かうロシアのバルチック艦隊はマダガスカルに2ヵ月もの間、逗留を余儀なくされた。今後について、本国からの指令がなかなか届かなかったのだ。ようやくマダガスカルを出港したが、人生を悲観したのか突然インド洋に飛び込む水兵が数人出た。それから百年余り、ピースボートクルーズはインド洋を楽天的に航海する。広大なインド洋は、さまざまな民族や文化が入り混じる歴史の十字路。その魅力的な海を、タイムスリップしてみよう。

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© Kataoka Kazushi

コーチンで生涯を終えたあの探検家

「われわれはヴァスコ・ダ・ガマよりも困難な航海に乗り出していますね」。『坂の上の雲』で、インド洋をゆくバルチック艦隊に乗り込む少尉候補生の青年は言った。ヴァスコ・ダ・ガマ(1469年~1524年)はポルトガルの探検家。1498年にポルトガルとインドを結ぶインド航路を開拓した。彼は1502年に再びインド航海を行い、翌年、コーチン(現地名コーチ)にインド初のヨーロッパ植民地と要塞を築いた。第3回航海の途上の1524年、ガマはコーチンで病死。現地の聖フランシスコ修道院で葬儀が行われた。のちに遺体は故国に運ばれたため、修道院にはその墓の痕跡だけが残る。

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© Nakasuji Kota

津波が生んだモルディブの「ツナの恩返し」

1987年、大規模な高潮がモルディブを襲った。国土の大半が浸水したモルディブは日本に緊急援助と支援を要請。日本はそれに応え、2002年までの15年をかけ、長さ6キロの防波堤で首都マーレを囲み終えた。その2年後、スマトラ島沖地震が発生。モルディブも大津波に襲われたが、防波堤によりマーレは守られ、死者も出さなかった。そして2011年、東日本大震災が起こる。モルディブ政府は同国の特産品で保存のきくツナ缶8万6400個を提供。これに加え市民から約4600万円の義援金とツナ缶60万個が被災地に寄せられた。困った時はお互い様のツナの恩返しだった。

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© Chiga Kenji

130年前、セーシェルにやってきた日本人

1893年、セーシェルにひとりの日本人がやってきた。写真師の大橋申廣(しんごう)である。彼は最初からセーシェルを目指していたわけではない。豪州、インドをへて南アフリカに行くつもりだったが、ザンジバル(タンザニア)で重病にかかってしまう。医師に気候の良いセーシェルに行くよう勧められた大橋はこの島にたどり着き、貴重な写真の数々を残していく。首都ビクトリアのクロック・タワー落成式(1903年)や、英国に敗れてこの島に流刑となったアフリカの王たちの肖像などである。そして再び帰国することなく1925年にセーシェルの土となった。

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モーリシャスの「のろまな鳥」に降りかかった悲劇

1598年、オランダ艦隊がモーリシャスに寄港。その航海日誌にこの島に生息する不思議な鳥「ドードー」の存在が初めて記された。ドードーの名の由来はポルトガル語で「のろま」の意。絶海の孤島暮らしのため天敵もいなかったドードーは空を飛べず、地上をのろのろ歩くだけ。これが災いした。人間による乱獲と森林の開発、人が持ち込んだ外来種(犬、豚、ネズミ等)による捕食で、その数はみるみるうちに減少。そして1681年の目撃を最後に地球上から姿を消す。発見からわずか83年での絶滅だった。のちにアメリカ英語でドードーは「滅びてしまった存在」の代名詞となった。

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30歳目前で散ったレユニオン生まれのエースパイロット

フランス領レユニオン島。1888年10月6日、ひとりの男児がこの島で生まれた。のちに本国に渡った彼は、飛行機の魅力に取りつかれる。そして1913年、世界初の地中海横断飛行の快挙を成し遂げる。その翌年、第一次世界大戦が勃発すると、フランス空軍のエースパイロットとして活躍。1915年にドイツの捕虜となるも1918年、ドイツ軍将校に変装し捕虜収容所からの脱出に成功し、空軍に復帰する。だが同年10月5日、ドイツ機に撃墜され30歳目前に帰らぬ人となる。ローラン・ギャロス。その名はレユニオン島の空港と、テニスの全仏オープンが開催される競技場に印された。

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© Yoshioka Hinata

レユニオン島に流されたベトナム皇帝親子の人生

フランス領インドシナの保護国とされたベトナムの阮朝。10代皇帝・成泰帝は自動車を運転し、髪形を西洋風にするなど西洋文化に興味を持つが、フランス支配には反感を抱く。そのため1907年に28歳で退位させられ、その跡を息子の維新帝が7歳で継いだ。しかし、維新帝も反仏勢力に呼応したため1916年に廃位され、親子ともにレユニオン島に流された。その後、維新帝は第2次世界大戦で連合国側に協力するなど活躍したが、1945年に中央アフリカで乗っていた飛行機が墜落し死亡。父の成泰帝は同年、29年ぶりにベトナムに帰国。1954年にサイゴンで75歳の人生の幕を閉じた。

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マルコ・ポーロの二重のミスが生んだマダガスカル

マダガスカル。その名の由来はマルコ・ポーロの『東方見聞録』にあるという。マルコはソマリアのモガディシュを誤って「マディガスカル」とつづり、さらにこれを島だと紹介した。つまり二重の過ちを犯したわけだ。そして1500年、ポルトガルの航海者がアフリカ東部に大きな島を発見すると、ポルトガル王は「これがマルコ・ポーロの言うマダガスカルか!」と早合点し、現在に至る。マルコ・ポーロ、そしてバルチック艦隊。ともに東方を目指した者に縁のある島マダガスカル。そしていま、東方から船出したピースボートクルーズがインド洋を横断し、ここに寄港する。

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