クルーズコレクション

人と人をつなぐ南太平洋−航海作家が選ぶ歴史航海−

2021年10月29日

南太平洋

人と人をつなぐ南太平洋−航海作家が選ぶ歴史航海−

日本列島の目の前に広がる太平洋。この先に、いつか行ってみたいと夢見た国々が待っています。中でも南太平洋の島々は、飛行機を乗り継いで訪れるには不便な場所が多く、費用もかかるため、クルーズでめぐるのが最適です。航海作家のカナマルトモヨシ氏とともに、島と島とをつなぐ短い旅を繰り返しながら大洋を渡る、アイランドホッピングの旅へ出かけましょう。

文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。

人と人をつなぐ南太平洋−航海作家が選ぶ歴史航海−

初めて世界一周した日本人が見た南太平洋

江戸後期の1793年、石巻(宮城県)を出帆した若宮丸は嵐で遭難。ロシアに漂着した船乗りのうち4人は、1803年に日本との通商開始交渉に向かうロシア使節とともに、祖国を目指すこととなった。その途上、南太平洋に浮かぶマルケサス諸島のヌク・ヒバ島に上陸。そこで彼らが見たのは、全身に入れ墨を施し、手に人間の頭蓋骨を持った身長2メートルの住民だった。若宮丸の4人は「鬼が出た!」と恐怖したらしい。その後、彼らは無事帰国し、日本人初の世界一周を成し遂げることとなった。時は流れ、220年後の現代。我々も南太平洋という広大な歴史の海に乗り出そう。

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「陽気なハワイの王様」の世界一周の目的は?

ハワイの第7代国王として1874年に即位したカラカウア。彼は、音楽や新しいもの好きだった性格から「メリーモナーク(陽気な王様)」と呼ばれていたが、なんと1881年に世界一周の旅に出る。この旅には米国の圧力が強まっていたハワイ王国の存在を諸外国に認めさせ、労働者不足解消のための移民送り出しを交渉する目的があった。日本寄港の際には明治天皇ともひそかに面会し、日本の皇族と自分の姪との結婚を申し込む。日本と同盟関係を結び、ハワイ支配をもくろむ米国に対抗しようとしたのだ。この婚姻話は明治政府から丁重に断られるものの、日本からのハワイ官約移民の開始(1885年)には成功したのだった。

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Ⓒ Nakamura Mitsutoshi

ゴーギャンの「お得な」船旅の結末は

タヒチを題材にした作品で知られる画家のポール・ゴーギャン(1848~1903年)。実は彼は、タヒチの他にベトナムとマダガスカルも移住先として検討していた。いずれもフランス植民地だ。そして彼は統治国民の特権を活用して旅券を3割引で購入し、1891年にタヒチへと旅立った。しかし、ゴーギャンの絵は現地在住のフランス人には相手にされず、経済的に困窮。そして無料の乗船券を手に入れた1893年、あれほど熱望したタヒチを捨ててフランスへと戻る。マルセイユに降り立った彼のポケットに入っていたのは、わずか4フランの現金。そしてパリに戻る列車の乗車賃を無心するための友人あての電報だけだった。

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ゴーギャンをモデルにした小説家の裏の顔

英国の作家サマセット・モーム(1874~1965年)はゴーギャンをモデルにした小説を書くため、1916年にタヒチを訪問した。その3年後に発表した『月と6ペンス』は大ヒットした。そんな彼にはもう一つの顔がある。小説のネタ探しに世界中を駆けめぐる人生を送ったが、その真の目的は英国の諜報部員としてのスパイ活動だった。『月と6ペンス』の発表後には、日本を4度訪問。大歓迎を受けつつ、東京・横浜・京都・神戸・下関・長崎などに足を延ばしている。後年、日英は太平洋戦争で激突するのだが、モームが本国に送った日本の情報は、かなり役立てられていたのかもしれない。

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『憧れのハワイ航路』を生んだ別府発着の船

戦後間もない1948年、『憧れのハワイ航路』がキングレコードから発売された。敗戦直後の混乱期、岡晴夫の伸びやかな歌声は人々の心を明るく照らした。作詞者は石本美由起(1924~2009年)。だが、石本にハワイ航路の乗船経験はなかった。広島県大竹市で生まれた彼は、瀬戸内海の風景を眺めて育った。幼少のころから病弱だった石本にとって、家の窓から見つめた阪神~別府航路をゆく関西汽船の客船は、心を慰めてくれると同時に憧れの存在でもあった。のちに別府航路の船をイメージしながら作詞したのが『憧れのハワイ航路』だったという。

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イースター島を目指したコンティキ号の漂流

1947年4月28日。6人とオウム1羽を乗せた筏船がペルー・カヤオ港から船出した。船の名は「コンティキ号」。ノルウェーの人類学者、海洋生物学者にして探検家のトール・ヘイエルダール(1914~2002年)はペルーに残るインカ帝国の巨石文化が海を渡り、イースター島にモアイ像として伝わったと結論。それを実証するためインカ帝国時代の船を模したコンティキ号でイースター島を目指したのだった。出航から102日後、筏はポリネシアで座礁したが、その記録『コンティキ号漂流記』は世界的なベストセラーに。彼の冒険航海は後世に多大な影響を与えている。

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Ⓒ Nakamura Mitsutoshi

モアイを立て直すきっかけは黒柳徹子さん

イースター島のモアイは、19世紀前半にはすべての像が倒されてしまっていた。それから約150年後の1988年。TBS『世界・ふしぎ発見!』のイースター島特集で、モアイの現状が紹介された。解答者の黒柳徹子さんは、「モアイの修復に日本の企業が助けてあげればいいのに」とコメント。株式会社タダノ(本社・高松市)の社員がたまたまそれを見ていた。『コンティキ号漂流記』を読んでイースター島に憧れていた彼は本社に掛け合い、社長も了承。同社の建設用クレーンでアフ・トンガリキにある15体の像を復元・修復、1995年に現在の姿へとよみがえらせたのだった。

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門外不出のモアイ像が南三陸にやってきた

1960年5月23日未明。チリ地震が発生した。翌日には最大6.1メートルの津波が三陸沿岸を中心に襲来し、大きな被害を与えた。1991年、チリ地震の壊滅的な被害からともに復興を目指した友好の証として、宮城県南三陸町にチリ人彫刻家の制作したモアイ像が送られた。しかし2011年、東日本大震災による津波はモアイ像を飲み込んでしまった。そこでチリ側は2013年、イースター島の石を使って掘られたモアイ像を南三陸に寄贈。門外不出だった「本物のモアイ」が初めて南太平洋を渡ったのだ。海は人と人を隔てるのではない。歴史という名の海も、またつながっている。

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