古代文明クルージング-航海作家が選ぶ歴史航海-
アラビア半島に興ったイスラム教は、瞬く間に北アフリカやスペインなど地中海世界に広がった。その背景には、高度なイスラム文明とアラブ商人の活発な動きがあった。当時のヨーロッパ世界の人びとが渇望していたものを、アラブ世界はすでに備えていたのである。やがて悠久の時を超えて語りかける文明の記憶。1万2千年前の巨石遺跡から、伝説のアトランティス、そしてエジプトの黄金文明へ。人類が築き上げてきた文明の原点を、航海作家のカナマルトモヨシさんとめぐります。
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文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。
カナマルトモヨシさん 公式ブログ
旅は世界最古の文明発祥の地から
世界で一番古い文明が興った地、トルコ。アナトリア高原の最東端にあたる、元来メソポタミアとよばれた地において生まれた。チグリスとユーフラテスという2つの川の源流があるメソポタミアで、いまから1万2000年前のものとされる巨石遺跡「ギョベグリ・テペ」が見つかった。そこでは定住型の狩猟採集生活が行われ、集会所や祈りの場のようなものも発掘された。その意味するものは、古代エジプト文明が興るよりも7,000年前も昔の人間が、ある種の生死観を持って、物事を行ってきたということだ。トルコから地中海、そしてエジプトまで。文明の流れをたどるクルーズが船出する。
イランに残された「エデン」の謎
イランに興味深い地名が残る。エデン。アダムとイブの物語で知られる、あの楽園だ。6万年前、氷河期の到来による気候変動で食糧が減り、食べ物を求めて人類はアフリカ大陸から移動していった。世界遺産「タッシリ・ナジェール」がサハラ砂漠の真ん中にあるが、そこはかつて草原だった。しかし、6万年前にはそこも完全に砂漠化していたので、唯一行けるところが紅海、アラビア半島の先しかなかった。ただ、氷河期は海水面がとても低かったので、移動が可能だった。エデンは旧約聖書の神話と言われる。が、史実を基にして書かれていることが多く、たどり着いた楽園がエデンだという。
300人から始まった人類の大移動
エデンに来たのは、最大300人ほど。それは人びとが集団でコミュニケーションできる最高の数という。エデンからさらに多くの人びとが狩猟採集生活をしながらトルコのアナトリア半島の方に移動していった。5万年ぐらい前には、すでにアナトリア周辺にはたくさんの人がいた。そしてそこからまた世界中へと繋がっていく。それゆえ、トルコは単なる文明の十字路という言い方もできるし、東西南北、様々な人びとが行き交った「文明発祥の地」ともいえる。ちょうどその頃は、氷河期が終わったころ。それによって世界中に散らばった人びとが定住して、各地で文明文化を築いていくことになる。
マルタの巨石神殿文明を生んだ沈没
地中海に浮かぶマルタ共和国に巨石神殿が残る。現在、マルタ島とゴゾ島で現在約30基以上の巨石神殿が確認され、そのうち6神殿が世界遺産「マルタの巨石神殿群」として登録されている。建造は紀元前4,500年から前2,000年頃とされ、人類最古の石造建築物とされている。これらは重さ100~200トンにもおよぶ重さの石を組んだもので、春分の日から秋分の日まで、光の射す時間がわかるように造られている。いつ種まきをするか、いつ収穫をするかを知るための装置だったのだ。同時にそこは祈りの場所でもあった。このような高度な文明がマルタに興るきっかけは、ある大陸の沈没だった。
サントリーニ島民は平地に住まない
最近の有力な学説によると、アトランティス大陸はこれまでの定説だった大西洋ではなく、エーゲ海にあったという。その根拠とされるのが、エーゲ海にあるサントリーニ島である。アトランティス大陸のど真ん中に火山があり、それが大爆発を起こして沈没したとされる。そのときにできた外輪山の、海面の上に残った一部がサントリーニ島だというのだ。現在、海岸線に近い部分が平地となっているが、なぜかそこに人は住んでいない。またいつか沈むかもしれないという警戒心が島民のDNAに組み込まれているのかもしれない。だからできるだけ海面より遠い上に暮らしているのだという。
アトランティス避難民が興したエジプト文明
アトランティス大陸は沈没し、そこに暮らしていた住民は逃げ出した。ある説によれば、まず目指したのはクレタ島だったという。そしてアトランティス避難民によって高度のクレタ文明が興った。さらにマルタ島へ移った者が、そこで巨石神殿からなる文明を興した。そして現在から5,000年前、アトランティス避難民の一部はさらにアフリカ大陸へと逃れ、上陸した土地で文明を花開かせたという。それが古代エジプト文明なのだという説が、一部で有力視されている。まだ確たる証拠は見つかっていないが、クレタやマルタという地中海の島で、エジプト以前に文明が興っていたのは間違いない。
ヌビアが支えた古代エジプトの繁栄
エジプトとスーダンの間にヌビアという地域がある。それは原住民の言葉で「金」を意味する。それほどヌビアでは莫大な金が取れた。これをめぐって古代からエジプトとスーダンはずっと争ってきた。最終的に古代エジプト王国が勝利を収め、ヌビアを支配するようになった。ツタンカーメンの黄金のマスクなども含め、ふんだんに金を使えたのはヌビアのおかげといえる。古代エジプトのはるか後世の14世紀、アフリカ西部の黒人イスラム教国・マリ王国の王が「その産する金のゆえに最も富裕な王である」といわれた。アフリカ大陸は金を大量に産出したが、古代エジプトの繁栄も支えたのだ。
エジプトに残る原始キリスト教の源流
古代エジプト文明にイシス信仰がある。イシスとは物事を破壊するが、それを再生させるという女神。この信仰は古代ギリシャ、ローマにも受け継がれる。さらにローマ帝国崩壊後のキリスト教文明にも、イエスの復活として残った。ただ、ローマ帝国末期にキリスト教が国教化された際、人間イエスを聖書の中から全部消し、神の子イエスにした。それが現在読まれている聖書である。しかし、イエスは人間であるとする原始キリスト教はエジプトでコプト教として残る。コプト教の聖書ではイエス・キリストには妻がいたことも全部書かれている。そしていまも人口の2割がコプト教の信者である。
ミイラに見る古代エジプト人の生死観
古代エジプト人の死生観はナイル川に見ることができる。太陽は東から昇り、西に沈む。それは生と死の世界でもある。ナイル川西岸が死の世界とされ、墓はこちらにある。逆に東側には神殿などが建てられた。イシス信仰が根強かった古代エジプトでは、沈んだ太陽は再び戻ってくるから、死者が戻ってきたときの場所が必要とされた。その場所がミイラ。一説によると1億体ものミイラがつくられたという。ミイラは権力者だけのものではない。ピラミッド造りに従事した農民が、「死んだ息子のミイラを作るために休んだ」という記録も残されている。民衆も王と同じ宗教観を持っていたのだ。
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