悠久のアラブ世界をクルーズする-航海作家が選ぶ歴史航海-
アラビア半島に興ったイスラム教は、瞬く間に北アフリカやスペインなど地中海世界に広がった。その背景には、高度なイスラム文明とアラブ商人の活発な動きがあった。当時のヨーロッパ世界の人びとが渇望していたものを、アラブ世界はすでに備えていたのである。やがてイスラム文明を乗り越えるべく、ヨーロッパ人は大航海時代へと乗り出す。壮大な歴史の海をクルーズし、ナイル川へ。それをさかのぼり、アブシンベル神殿に向かう。人類の大切な遺産を後世に伝えようとする「世界遺産」の発想が生まれた場所だ。古代から現在まで、悠久の歴史をつむぐアラビアン・クルーズにようこそ。
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文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。
カナマルトモヨシさん 公式ブログ
イスラム教がヨーロッパを席捲した理由
7世紀にイスラム教が興ると、ものすごいスピードでヨーロッパを席捲した。1世紀もたたぬうちにイベリア半島(現在のスペイン)に到達する。そのひとつにアラブ商人の存在がある。ビジネスとくっついてイスラム教は主に北アフリカで広がっていった。スペインはローマカトリックに最も忠誠心を持つ信者がいた、いわばキリスト教保守派の土地であった。ところがスペインの民衆はイスラム教を受け入れる。なぜなら当時、イスラム教はキリスト教にはない高い文化を誇っていたからである。数学に代表されるような学問や職人文化は、当時のヨーロッパ民衆にとってまぶしく映ったのだ。
イスタンブールに見る高度なイスラム文明
イスラム文明の高度さは、イスタンブールのような大きな都市づくりにあらわれる。貧しい人がなるべく貧しくならないようにいろんな施しを受けることのできる施設がモスクのそばに必ずある。そして、1人の男性が4人まで妻帯できるというのも、それはその女性を助けるため。4人の妻を養うことによって、貧しくない暮らしを保障するということでもある。バザールを見てみよう。そこは全部分野ごとに区画が分かれていて、すべて職人の集まりだ。そしてそれがずっと後世にいたるまで、技術を伝えている。そういうところにもイスラム文明の豊かさを垣間見ることができる。
モスクとは砂漠にありえない天国の姿
砂漠の中に湧水があり、それを使ってオアシスをつくる。ナツメヤシやザクロなど実のなる作物を植えて、さらにその周辺に人が暮らしてオアシスを活用する。それはイスラム教徒にとって、砂漠にはありえない天国の姿であった。それを体現したのがモスクである。モスクでは、無数の柱が連立している。湧水のあるナツメヤシの森を表現しているのだ。そこで森の神に出会う。だから、必ず噴水が真ん中にあって、そこから水路をつくっている。モスクに行くと、人びとは全身を清め、拝礼を行う。生活の中にイスラムの教えが入り込み、とても清潔な暮らしをしていることがわかる。
「乳香の道」で栄えた都市国家ペトラ
アラビア半島の最南端イエメン。そのイエメンで取れていた乳香の香りは、古代ローマでは非常に貴重なものとされた。当時の権力者にとって乳香の香りがすることは大切で、そういう人物は非常に徳が高いとされたためだ。そこでローマの権力者はイエメンで乳香を取ってこさせて、その香りを身にまとった。もちろんそれはとても高価なもので、乳香1グラムが金1グラムで取引されたという。ヨルダンにペトラ遺跡という世界遺産がある。ペトラは古代の都市国家で、イエメンからローマの乳香を運ぶルートの途中にあった。ペトラはその通行料を徴収して繁栄したのだ。
胡椒への渇望が巻き起こした大航海時代
古代ローマから、肉はよく食べられていた。しかし冷蔵庫のない時代、肉は保存がきかず、ほとんど腐ってしまうのが悩みの種だった。そこで腐った肉に胡椒をふって、オリーブ油を使って焼いて食した。これなら臭みが抜けるからだ。ゆえにヨーロッパでは胡椒は高価な貴重品だった。ただ、その原産地インドは遥か遠い。そこでアラブ商人がインドで買い付けて、それをヨーロッパ人に高く売りつけた。それは胡椒1グラムに対し金1グラムで売買されていたことに表れている。アラブ商人を介さないでヨーロッパ人が胡椒を直接インドから入手しようした動きこそ、大航海時代だった。
ピラミッドづくりにまつわるウソ
ナイル川上流にあるエチオピアでは雨季に大量の雨が降る。そのため毎年3~4ヶ月間、氾濫した。氾濫すると農民は仕事ができず、失職する。クフ王など古代エジプトの王はそんな農民を集め、給与を支払うか、彼らが食べられないような肉やビールなどを労働の対価として与え、ピラミッドを建造させた。ピラミッド建造中にいろんな人を雇うための記録が残された粘土版も残されている。よく言われる「奴隷を酷使して、ピラミッドを造った」という話は、まったくのウソである。いっぽうで、ナイル川は氾濫することによって沿岸に豊かな水をもたらし、農業に最適な環境を用意したのである。
アスワン・ハイ・ダムがもたらしたもの
1970年、ナイル上流にアスワン・ハイ・ダムが完成した。それまで、ナイル川の氾濫によりエジプトの首都カイロの街は夏になると毎年水浸しとなっていた。それがダムの完成により解消し、カイロの都市機能は安定するようになった。しかし、まもなくデメリットも生じた。ナイル川が氾濫しなくなったため、どんどん沿岸の土地が痩せていったのだ。現在では農薬を撒かないと栽培ができなくなり、熱のひどさから塩害も発生している。そしてダム建設によりアブシンベル神殿も存亡の危機に立たされた。アスワン・ハイ・ダムが完成することによって、その古代遺跡がまるごと水没するからである。
世界遺産の発祥地・アブシンベル神殿
アスワン・ハイ・ダム建設にともない、沿岸には水没地域が発生することが分かっていた。そのなかにはアブシンベル神殿など古代エジプトの遺跡群も含まれていた。当初、これらはそのまま水没させる計画だった。しかし、これに異を唱えたのは国際社会だった。そしてユネスコが中心となり、65メートル上まで神殿を引き上げるという大工事を実施。こうしてアブシンベル神殿は水没を免れ、この一件を通じて、「自分の国でも他民族のものの中にも素晴らしいものがある」ということを人類が理解するようになった。それが人類共通の遺産=世界遺産という概念が生まれる契機となった。
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