クルーズコレクション

知られざるバルト海の魅力−航海作家が選ぶ歴史航海 −

2021年8月27日

バルト海

大自然の絶景や古都をめぐる北欧・バルト海の航海は、「最も美しい航路」のひとつとして世界一周クルーズの中でも人気を集めています。 重要な交易圏として栄えたそのバルト海は、デンマーク、スウェーデン、ロシアなど強国の支配の下、海の歴史を刻んできました。 陸路や空路とはまた違う景色を見せてくれる「海路」の歴史の魅力を、航海作家・カナマルトモヨシ氏が紐解きます。

文・構成:カナマルトモヨシ(航海作家)
日本各地のみならず世界の五大陸をクルーズで訪問した経験を持つ航海作家。世界の客船を紹介する『クルーズシップ・コレクション』での執筆や雑誌『クルーズ』(海事プレス社)に連載記事やクルーズレポートを寄稿している。

バルト海の不思議な歴史を物語るヴァーサ号

17世紀、バルト海の覇権を握っていたのはスウェーデンだった。そして世界最強の軍艦建造を目指し、1628年にヴァーサ号は完成した。ところが、その処女航海で悲劇は起こる。大砲の積みすぎか、あるいは船尾に豪華な装飾をつけ過ぎたためか、出港まもなくあえなく沈没してしまったのだ。それからヴァーサ号は海底で333年もの長い眠りにつく。1961年、その眠りは偶然の発見で破られた。奇跡的に98%もの原型をとどめていた巨大かつ美しい船は、木の損傷を防ぐために塗装を施され、現在はストックホルムの特設博物館で見学することができる。ヴァーサ号の歩みは不思議な歴史が交差するバルト海そのもの。そんな海を旅してみたい。

Ⓒ Okuhira Keita
サンクトペテルブルグにやってきた大坂の伝兵衛

バルト海への出口を求め、強国スウェーデンに戦いを挑んだのがロシアのピョートル大帝(1672~1725年)。スウェーデンの要塞を落とし、1703年にモスクワからバルト海沿岸のサンクトペテルブルグに都を移したのだ。その少し前の1695年、商品を積んだ船で大坂から江戸に向う途中に難破し、カムチャツカに漂着した日本人漂流民がいた。名を伝兵衛という。紆余曲折をへて、伝兵衛はピョートル大帝に謁見。彼の話を聞いた大帝は日本への関心を深め、サンクトペテルブルグに日本語学校を開設する。伝兵衛はその日本語教師となり、ロシアで生涯を終えた。

Ⓒ Mike Hill/Getty Images
ベーリング海峡の命名者はデンマーク人

ピョートル大帝はサンクトペテルブルグ遷都と同時にバルト海艦隊(バルチック艦隊)を編成した。スウェーデンに勝利した大帝の関心は、遠く東方へも向けられる。そしてバルチック艦隊で活躍したデンマーク出身のベーリング(1681~1741年)に命じて遥かアラスカ探検を行わせた。ベーリングといえば、シベリアとアラスカの間に横たわるベーリング海峡の命名者として歴史にその名を残している。そのベーリングの銅像が、日本に建てられている。それは宮城県石巻市の海上に浮かぶ網地(あじ)島にある。ベーリングは日本には来航していないのに、なぜ?

なぜ石巻市網地島にベーリング像が?

網地島にやってきたのはベーリングの部下で、やはりデンマーク出身のシュパンベルグ。ベーリング探検隊の分遣隊を指揮した彼は1739年、網地島の沖に錨泊。島に上陸したロシア船員は住民との間で銀貨と野菜や魚、タバコなどを交換し、錨をあげて立ち去った。当時は、鎖国まっただなかの江戸中期。「暴れん坊将軍」のモデル・徳川吉宗の時代だ。シュパンベルグ艦隊の来航は当時の年号をとって「元文の黒船」と呼ばれる。これを記念して1991年に建てられたのがベーリング像だ。日本ではベーリングが圧倒的に有名なため、来航していない彼の像ができたようだ。

初の来日フィンランド人と『おろしや国酔夢譚』

伝兵衛以降、ロシアにたどり着く日本人漂流民は後を絶たない。なかでも有名なのが井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』の主人公・大黒屋光太夫(1751~1828年)。フィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンは光太夫らの保護と帰国に尽力。当時の女帝エカテリーナ2世も彼らの日本送還を許可し、キリルの息子アダム・ラクスマンを長とする遣日使節に帯同することとなった。1792年、ラクスマンと光太夫ら漂流民は根室に来航。ラクスマンは公式に初めて日本を訪れたフィンランド人となった。そして光太夫らはおよそ10年ぶりに帰国を果たしたのである。

初めて世界一周した日本人はコペンハーゲンにも現れた

光太夫らが帰国を果たした翌年の1793年。津太夫ら仙台藩の船乗り16人が、石巻から江戸へと向かう途中に嵐に遭って漂流し、カムチャツカに漂着した。10年後、津太夫を含む4人はサンクトペテルブルグからロシアの遣日使節団に同行し帰国することとなった。その最初の寄港地がデンマークの首都コペンハーゲンだった。漂流民たちもこの街を歩いている。当時のコペンハーゲンの人たちは見慣れぬ日本人を見て何と思っただろうか。この翌年、津太夫らは長崎に到着。1806年に仙台藩へ13年ぶりの帰郷を果たした。そして図らずも世界一周を成し遂げた最初の日本人となった。

バルチック艦隊アヴローラの数奇な運命

バルチック艦隊は日露戦争の日本海海戦(1905年)で壊滅的な敗北を喫した。この海戦で損傷し、逃走したのが防護巡洋艦アヴローラだ。サンクトペテルブルグに戻ったアヴローラに、さらに数奇な運命が待ち構えていた。1917年10月にロシア革命が起こると、アヴローラは革命側について砲撃を開始。ソ連誕生につながる契機となった。第2次世界大戦ではナチス・ドイツの攻撃を受けて沈没するが引き上げられ、1956年に博物館船となった。そしてユネスコ世界文化遺産「サンクトペテルブルグ歴史地区と関連建造物群」を構成するひとつに登録されている。

フィンランド発「東郷ビール」の誤解

日露戦争での日本の勝利は、当時、ロシアの支配下にあったフィンランドの人びとを勇気づけたという。「日本海海戦で連合艦隊を指揮した東郷平八郎ラベルのビールが独立記念に販売された」なんて伝説も生まれた。しかし、これが発売されたのは日本海海戦から65年後の1970年のこと。世界各国の提督をラベルに描いた「提督ビール」のひとつで、実はバルチック艦隊のロジェストヴェンスキー提督のものも同時に発売されていた。このビール、フィンランドではもう手に入らない。その代わり、いまは日本ビール株式会社製造の「東郷ビール」が日本で飲める。

Ⓒ Endo Kazuhide
ストックホルム市庁舎の「青の間」は青くない

冬の始まりになると、日本ではスウェーデンに注目が集まる。ノーベル賞受賞者の発表があるからだ。そのためノーベル賞晩さん会が行われるストックホルム市庁舎「青の間」の知名度も高い。ところがその壁は青くない。市庁舎は1923年に14年の歳月をかけて完成した。「青の間」の壁は、もともと水の都ストックホルムをイメージする青色のしっくいをレンガ壁の上に塗る予定だった。ところが、下地のレンガの壁が想像以上に美しかったため、予定を変更してその素材感を残したのだった。当初の青壁の構想は「青の間」という名前に残され、世界に広まった。

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